2025年度
教員名
専門領域・卒論指導可能分野
政治学(原論・政治理論)、倫理学、社会理論、いのち論
演習題目
ゼミ紹介
このゼミでは、「悪・暴力・不正義を/から考える」と「いのちをめぐる政治」という二つの大きな柱をたててきましたが、最近では「いのち論」ゼミと自称しています。最首悟さんの「いのち論/問学(モンガクと読みます:問い学び、学を問う)」、いまは亡き立岩真也さんがその礎を築かれた「生きて存るを学ぶ=生存学」、そして、『「いのち」論のはじまり』『「いのち」論のひろげ』を書かれた村瀬学さん、この御三方の「ひとと仕事」に敬意をはらってのことです。 春学期には、共通テキストとして、ザ・古典をとりあげるようにしてきました。ひとりだけでは読むのがシンドイ書物をゼミの仲間と力をあわせて読み、巨人の肩に攀じ登って遥かかなた・遠くを望み見る練習=冒険もしてみよう、と。 ここ数年は、加納実紀代さんの言葉を借りれば、「まだ「フェミニズム」がなかったころ」に書かれた女たちの一書や、現代世界を思考するさいの「古典」をとりあげてきました。 さて、2025年度は? 「いのち論(/から)の《ひろげ》:生きて在ること、傷と出来事」というテーマを掲げます。そして、ゼミ生たちは、以下の宣言をシラバスで公開しました。 「われわれ、いのち論ゼミ2025=Showa100年組は、マルティン・ハイデガー『存在と時間』を2年間にわたる共通テキストとして精読する決意をした(翻訳をつかうけれど)。個別には、それぞれの課題、「傷つくことができること」と他者の受容とのかかわり、心理的虐待などの逆境をどう生き延びるのか、障害学×〈生きて存るを学ぶ〉、負の歴史とどう向き合うのか、資本主義的な論理が過度に浸透する現代社会をどうするか、に取り組む。」 ゼミ生それぞれがごじぶんにとっての「古典」ないしは「わたしの一冊」に出会い、その書との対話(シチテンバットウと読む)をとおしてかんがえた事柄を、ゼミの仲間につたえ、仲間からの厳しくも暖かい応答をうけとめ、また考えなおし、歩み、……ということをつづけ、それぞれの「いのち」論をかたどることばを創造=奪還してほしい、というのが、夜店の店主の切なる願いです。 「生き方にたえずあらたな霊感を与えつづけるような具体的な生成力をもった骨髄としての思想、生きられたイメージをとおして論理を展開する思想」(真木悠介『気流の鳴る音』)をわがものとされるように。
卒論・卒業研究について
問いをもって生き、その問いをとことん考え抜く練習、地道に独り歩くこと――しかし仲間とともに――の積み重ねがあってこそ、卒業研究という大学生活の集大成ができあがってゆきます。その書き物は、学窓をあとにされてからも、おそらくは何かあったときに手に取り、己が来し方を振り返り、たとえ闇にあっても足元を照らす一灯として「わたしの一冊」ともなることでしょう。 24年度には、以下のタイトルの卒論が書かれました。いずれも、魂にふれる〈わたしのいのち論〉でした。 ・「メケシfemale erasureとジェンダー概念の再考──ポスト構造主義フェミニズムの視座から──」 ・「私が「自分のことを好きである」と言うとき」 ・「ハーレムの自由と抑圧―ボールドウィンが描く都市の二重性」 ・「森崎和江と“ふるさと”朝鮮」 ・「バタイユにおけるひとりひとりの死―ロールにまつわる記述から読み解く〈喪〉の作業」 ・「住民の〈故郷観〉を介して接近するニュルンベルク戦後復興」 ・「クラフティヴィズム: 手芸と社会運動の可能性と課題」 ・「傍らに「居る」こと─生の儚さを受容する紐帯─」
受講上の注意など
演習担当者がおこなう授業、基礎演習、あるいは導入科目「政治社会論入門」を履修済みであるか、あるいは、担当者がおこなう専修科目「政治理論」を演習履修時と同時並行で履修することをつよくもとめてきました。 ごじしんの関心のある学問の歴史そのものにふれてみることは、あるいは、もっと手前で、だれかひとりの書き手(学者、研究者にかぎらず!)の「ひとと仕事」に耽溺してみること、現代世界論コースで開講されている授業のいずれかにかんして「勉強バカ」になりきってみることは、ごじぶんで政治や社会や生そのものを見通すうえで、きっと支えになるはずです。 履修を希望されるかたには、選抜の有無にかかわらず、以下の課題に応える文章を提出していただいてきました。 「あなたじしんが構想する〈いのち〉論では、どのような課題群、テーマ群、問題群(複数形であることに注意!)が立てられるか。それぞれの課題、テーマ、問題について、あなたが読むべきと考えるテキスト(書籍や論文あるいは小説、詩、映画など)を少なくとも一つはあげてください。字数は2000 字以上とします。」
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